083382ce84ロックの歌詞は、何よりもまず歌われるべきものであって、通常の詩とは違い、活字だけで提供されることを主目的としていない。もちろん、集められた歌詞が書籍となって流通することはよくある事だが、本となってしまった歌詞の味気無さと言ったら、どうだろう。その味気無さが、あるいはロックの歌詞自体の過小評価に繋がっていると自分には思えるのだが、そもそも全て詩というものは神楽歌・催馬楽の昔から、肉声に乗ることによって完成されるものではなかったか。現代詩の曲芸は嫌いではないし、悪文の戦後思想も結構なことだ。ただ、近代から我が邦の詩人は久しく肉声を持たなかったように、自分には思える。

さて、友川カズキである。このブログの副題は「Jロックの歌詞」などとしているが、大して網羅的にするつもりはなく、単に同時代の日本の歌で、その時々、自分の頭にのぼった人を書いていこうと思っている。しかし、それだとしても友川カズキを「Jロック」などという、浮ついた言葉で括ってしまっていいのだろうか?そのスタイルから言えば、フォーク・シンガーと呼ぶ方がしっくり来るように思うが、人によっては「日本パンク・ロックの始祖」とする人もいて、それもあながち外れと言えないところが、彼の支持層の意外な広がりに繋がっていると思う。(余談だが、この2012年に友川は『ナインティナインのオールナイト・ニッポン』や『スマスマ』で取り上げられており、現在も新たな世代のファンを獲得しつつある。)

友川を知らない方のために、以下、略歴を記そう。1950年生まれの秋田県出身で、本名は及位典司(のぞきてんじ)と云う。この及位という姓を笑われるつらさから、勤め先の飯場で名乗ったのが「友川かずき」という芸名の発端であるという(2004年に、名前は現在のカタカナ表記になっている)。1970年、岡林信康の「チューリップのアップリケ」に触発され、ギターを弾き、歌うことを始める。1974年、東芝から「上京の状況」でデビュー。以後、1981年までに徳間からアルバム3枚、キングからアルバム4枚をリリースし、商業的に成功したとは言えないものの、熱心なリスナーの支持を受け続ける。この頃、ドラマ『3年B組金八先生』でゲスト出演し、名曲「トドを殺すな」を歌う映像が残されているが、津軽三味線のようにギターをかき鳴らし、絶叫するさまは、表現の古さ、新しさとかいう言葉を無意味にしてしまうほど、迫力に満ちたものだった。

そして、前作から5年の空白を挟んで、1986年にポリドールからアルバム『無残の美』をリリース。今のところ、これが友川最後のメジャー・レーベルからの作品となる。リリース間隔や、販売元の規模が作品の質と比例するわけは無いのだが、傍目には活動が沈滞しているように見えたかもしれない。しかし、友川はこの時、表現者として正に最盛期を迎えようとしていた。1曲目「彼が居た」は、昭和60年7月24日神奈川県真鶴海岸で溺死した元プロボクシングフライ級王者のコメディアン「たこ八郎」を歌った曲、清冽さが時に痛みを伴う「海みたいな空だ」、短歌絶叫コンサートで知られる歌人福島泰樹に捧げた曲「永遠」、中原中也の詩に曲をつけた「一つのメルヘン」「坊や」、そして、そうした佳曲たちの核として、今回紹介するタイトル曲「無残の美」がある。この曲の成立については、アルバムのライナーノーツに全て言い尽くされているため、便宜上、それを以下に引用させていただきたい。

「無残の美 友川は及位(のぞき)家の次男坊である。長兄一清と四男の友春は熊代に居住している。2歳年下の三男を覚(さとる)という。この曲は若くして逝った弟覚への追悼歌。覚は熊代農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出。流転が始まる。函館の牧場、千葉のマザー牧場、横須賀の海上自衛隊、生麦のストリップ小屋照明係、飯場から飯場、川崎の立ちん坊、函館ドックでのカンカン虫(船体清掃作業員)……。覚は、ちょうど兄友川がそうしたように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。坂口安吾と山頭火を愛し、その存在を兄に教えもした。一時郷里に帰ったが、(昭和)55年再上京して兄のアパートに同居。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人を。しかし半年後、いつもそうだったように突然の出奔。行方の知れないまま4年。(昭和)59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳。富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎の友川の部屋には20冊の大学ノートと数10枚のメモが残された。遺稿は『及位覚詩集』として、この夏(1986年)、矢立出版から刊行の予定。ちなみにジャケットのオブジェは『無残の美』とタイトルされ、友人の繪魯洲が制作したもの。」

友川の弟、及位覚は彼も詩を書いていたが、生前は無名の存在であった。彼が自ら命を絶った理由は分からないという。友川の「無残の美」は、以下の一節ではじまる。

 詩を書いた位では間に合わない
 淋しさが時として人間にはある
 そこを抜け出ようと思えば思う程
 より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ

 あらゆる色合いのものの哀れが
 夫々の運を持ちて立ち現れては
 命脈を焦がして尽きるものである時
 いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ

淋しさを紛らわすために多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。麻薬中毒の作家、W・バロウズは「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」と言ったが、彼の意図するところとはまるで違うかもしれないけれど、自分も、言葉は人間の心を蝕む病原体だと思うときがある。淋しさに形を与え、谺となって無制限に増殖してゆく。本当はきっと、彼は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 今もくれんの花が空に突き刺さり
 哀しい肉のように 咲いているど

 阪和線富木駅南一番踏切り
 枕木に血のりにそまった頭髪が揺れる
 迎えに来た者だけが壊れた生の前にうずくまる
 父、母、弟、兄であることなく

鉄道自殺した弟の身元確認の際、「見ない方がいいですよ」と言われたものの友川は、顔半分が飛んでしまった遺体と対面する。それは自分の親族だからというのでなく(だから「いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ」と歌っている)、一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。

 最後まで自分を手放さなかったものの
 孤独にわりびかれた肉体の表白よ
 水の生まれ出ずる青い山中で
 待つのみでいい
 どこへも行くな
 こちら側へももう来るな

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 そうか死を賭けてまでもやる人生だったのだ
 よくぞ走った
 走ったぞ
 無残の美

弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。「こちら側へももう来るな」、あえて解説など要らないと思うが、生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示したものだと思う。無残に破損された肉体と対面し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言ってあげられる、これが慈悲でなくて一体何だろう。人間のこころが授けられるもので、それ以上のものがあるのだろうか?

世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、言い換えれば懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。友川がリスペクトする、中原中也も、山頭火も、住宅顕信も、言葉を研ぎすませる手品みたいな事に取り付かれて、命を削った。一遍上人や、たこ八郎も、そういう意味では同じ群れの人たちだ。脆弱な肉体を持ちながら、それを忘れたかのように無茶をして、魂を純化する如く生き急いでしまう。

行き着くところ、残された作品だけでは全てを語れないのだ。立派に生き抜いたゲーテよりも、刹那的なボードレールやランボーが多くの人に、熱烈に愛される。実は誰もが、肉声を聞くことを求めている。自分たちの肉体がたかだか数十年のうちに老いて、消滅することを知っている。芸術はこの脆い肉体から、逃げられない。結局、友川カズキの東北訛りの、決して洗練とは縁遠いあの声に我々が脅かされるのは、そういうことでは無いのだろうか。

 「何が死だ!生でもないくせに!」(『彼が居た‐そうだ!たこ八郎がいた』)

最後に、この曲をまだ知らなくて、たまたま先にこのブログを目にしまったのなら、またいつか、この歌詞を耳で受け止めてみてほしい。この詞はきっと、そのまま黙読するだけでも良い詩だと思われるだろう。(この詩が原稿用紙に書かれた詩ではなく、ロックの歌詞だからという理由で、正当な評価を受けずに埋もれさせる理由がどこにあるのか。)しかし、これだけではまだ半身が欠けたままなのだ。自分はもう、この詩を読むたびに、友川のつんのめるような切ない声を探さずにはいられない。あっという間にかけぬける三分足らずの曲だが、啓示のように襲いかかる「ことばと音」をぜひ一度、体験して欲しい。

P.S.
これを書く時に、及位覚の事を調べていたら、ネットに詩が一編落ちていたので(詩集自体は、プレミアが付いてしまってもう自分の手には届かない)、それを紹介しておく。生を駆け抜けずには居られなかった、彼の思いが伝わる詩だ。

 愛しい時間 

 時の流れがすり抜けざまに微笑んだ
 残った大気の落とす悲哀は
 大地をゆるがすでもなく
 轟いては果て
 轟いては果てていた

 春とうたがうでもなく
 吝嗇(けち)な男は
 時に抱きつきはしても
 やがてひとつらなりの断片として
 追想の中におさまるであろう

 愛しい時間に抱きついている私を
 すり抜けてゆくものがありました
 加速された人生でした

P.S. もう一丁
友川は普段の関心のほとんどは競輪にあるそうだ。意識してか、無意識的なのかは分からないが、そうすることによって自分の表現に取り込まれないように、言い換えれば「死」に魅入られないようにしているのかもしれない。

強かな表現者というのは、そういうものだろうか。それとも、このような表現活動を職業にすること、そのものが難しいのだろうか。 詩はいつも、生に逆らうもののように、思えてならない。