NuclearCowboythe原爆オナニーズ(theが付くのが正式名称だが、以下、原爆オナニーズまたは原オナ)は今年30周年を迎える、現役のパンクバンドである。そのアルバムはインディーズ・レーベルからのリリースが多いため、知る人ぞ知るという存在ではあるが、メジャーからベスト・アルバムや、過去作品が再発されるなど、リスナーの熱い支持を受け続けている。音は、ピストルズやラモーンズといったオリジナル・パンクを想起させる、パワフルかつ疾走感溢れたロック・サウンドだ。

しかし、業界内での評価が高いとは言え、意識的にパンク・ロックを聴いたりしない一般リスナーのうち、原爆オナニーズというバンドを知ってる人がどれだけいるんだろうか?いや、それは原オナに限らないことだろう、「ブルーハーツ」だって、「AKB」だって、興味が無い人に取っては草二本と同じだ。そういう閉じた市場が日本には幾つもあって、犇めいているくせにお互いには無関心だ。勿論それでいいのだけれど、原オナが好きで、やっぱり閉じた世界にだけあるのはもったいない気がするから、こんな文章を書いてしまう。いったい、「原爆オナニーズ」というバンド名を初めて聞く人は、どんな印象を彼らに持つんだろうか。「ああ、セックス・ピストルズのもじりなんだね」という一言だけで通り過ぎる人もいるだろうし、卑猥な言葉を喜ぶ粗雑な感性しか持たない、ならず者たちと見られるかもしれない。あるいは「原爆」という言葉に政治的な匂いを嗅ぎ取られ、胡散臭く思われることも、きっとあるだろう。

まず、バンド名のことを言えば、ボーカルのTAYLOWはベスト盤のライナーノーツに「このバンド名を名乗ることによって人々がこのバンド名に嫌悪感などの反応を持ち、核・反戦について問題意識を起こさせることができればよい」と記しているらしい。また、TAYLOWはレコード店フジヤマのHPにエッセイを連載しているが(2001年から2012年3月までで187回を数える)、そこではバンド名については日本という国の本質をついたもので、自分はこの名前に誇りを持っているとしていた。これは自分の解釈だが、日本人は過去の戦争については、加害意識は少なく、被害意識が強いといわれている(ただし、これももっと言えば、どこの国でも同じだろう)。その意識の象徴が広島・長崎に落とされた、2発の原爆なのだ。「オナニー」については言うまでもない。相手を楽しませることを知らない、コミュニケーション不全の日本人の、得意技だ。イギリスの「セックス・ピストルズ」の、掟破りの爽快感とはうらはらの、なんと自虐的で、諧謔に満ちたネーミングなのだろうか。(ちなみに、バンド名の付けたのはTAYLOWではなく、バンド結成時のオリジナル・メンバーによるもの。その時点でTAYLOWは参加していない。)

あと、政治的なバンド・イメージについて述べたい。原オナのデビュー作「JUST ANOTHER」のリリース日は4月29日「昭和天皇誕生日」。2作め「NOT ANOTHER」は12月8日「不戦の日(日米開戦)」。3作めで初のフル・アルバムとなる「NUCLEAR COWBOY」は8月6日「広島原爆投下の日」。収録曲のタイトルは「Go Go 枯れ葉作戦」「Another Country's(Dead Soldiers)」「Final Solution」。実は、先の連載エッセイの中で、TAYLOWは「政治的なバンドとは思われたくない」旨の発言をしている。しかし、現在の日本の音楽業界全体から見れば、今まで紹介してきたような要素だけでも十分、「政治的」なバンドと見做されてしまうのではないだろうか。80年代後半以降、ロックからは政治が切り離される傾向にあったように思う。反ユートピア、ポスト・モダンの思想が流行していたせいもあるし、イデオロギーで固められることで、硬直した発想しか生み出せなくなる事例に人々が気づいたせいもあるだろう。しかし、「政治」色に染まらないことが、「政治」を語らなくなることに繋がり、単に「政治」を見失っているだけだとしたら、どうなのだろうか。「政治」に無知であることが、どれだけ恐ろしい結果に繋がるのか、自分は毎日、新聞の一面で繰り広げられている「数合わせの乱痴気騒ぎ」に慄然としている。

「政治」という言葉を出さないとしても、国家の中にいる限り、「政治」に関わらなければいけない時がある。例えば、「右翼」「左翼」という思想的立場を表す言葉がある。そしてまた、政治の具体的な問題があり、例えば「反原発」でもいい、原発を支持すれば「右」で、反原発の立場なら「左」の考えだと言われたりしたら、ひどく乱暴かつ陳腐な括りだし、決めつけるなと思うだろう。なぜなら、右翼で反原発も居るだろうし、左翼で原発支持も居るだろうから。「反原発」の中だって、すぐ廃止するか、徐々に無くしていくかで大きな開きがある。さらに、どちらにもつかない日和見の立場、グレーなものも考え方として存在を認められなければならない。だが、そうした差異を一切無視して、「右」あるいは「左」どちらかの立場に強制的に立たせられてしまうのが、「政治」そのものなのだ。そして、それは戦争などの時間的な猶予のない事態ともなれば、一気に本性を現し、我々の喉元を攻めてくる。「君は兵隊として、戦争に行くのか、行かないのか?」

原オナの政治的な立場は「反戦・平和」ということになるだろうか。ただ、彼らは「反戦・平和」の成立することが、生やさしいものでないということを知っている。今回紹介する、初期の彼らの代表曲「No No Boy」(「JUST ANOTHER」と「NUCLEAR COWBOY」に収録されているが、自分は「NUCLEAR COWBOY」を推す。ジャケットと、このタイトなサウンドが好きなのだ。)に、その想いは十分込められている。ちなみに、彼らのアルバムには歌詞カードが付いていない。(ネットで拾った情報によれば、TAYROWは「付けたら負け」と言ってるらしい。)なので、以下は聴き取りになる。作詞もTAYROWだと思うが、違っていたとしても歌っている限り、彼の気持ちだとして問題ないだろう。

 嘘っぱちの平和に 騙され 生き続け
 まやかしの自由に 踊らされ死んでゆく

 何も無い平和に 隔離され 生き続け
 変わりゆく自由に 次々壊される[殺される?]

 I don't wanna be a no no boy

歌詞はこれだけだ。短く、技巧らしいものは何もない。言ってることも大体は、すぐに分かるだろう。かく云う自分も、初めて聴いた時はパッと通り過ぎて、しばらく顧みなかったのだが。でも、「No No Boy」が何なのか分からないと、これはピンと来ないかもしれない。「No No Boy」とは、太平洋戦争のさなか、アメリカの強制収容所の中で日系人に行われたふたつの質問「米国に忠誠を誓い、日本への忠誠を放棄するか」、「米軍に従軍する意思があるか」にそれぞれNO-NOと答えた人を指している。だから、この曲は平和呆けしてしまった日本人の向けられたものであり、日本人だからこそ歌える、借り物でない思想を持ったパンク・ロックなのだ。

CDで初めて聴いて、十数年以上経ったゼロ年代、彼らの本拠地の名古屋得三でライブを目にする機会があった。原オナのライブは、痛快に始まって、爽快な汗に溢れていた。でも「No No Boy」の曲前のMCで、TAYROWはさりげなくこんな事を言っていた。記憶が曖昧になってしまったので、細かいところは違うかもしれない。
「アメリカは自分たちが、民主主義を守る存在みたいなことを言ってるけれど、あの国はそんなこと実際考えていません。嘘っぱちの、正義の国です。」
確か小ブッシュ政権期で、アメリカがイラクに宣戦した後のことだったと思う。自分は虚を突かれたような気持ちになって、高ぶる演奏に入った彼らを見ていた。

その日の対バンの縁で、ライブの打ち上げに参加させてもらったのだが、その際にたまたま、TAYROWさんと隣になる機会があった。めったに無い機会なので、恥も忘れて、自分が初めて聴いた原オナの曲が「No No Boy」であること、今日、生で聴くことができて嬉しかったことを述べた。ライブと違って、眼鏡をかけたTAYROWさんは、打ち上げで紛れ込んだだけの男である自分に対しても、すごく紳士的に答えてくれた。(だから、ここでは「さん」付けで呼ばせていただく。)「No No Boy」は、同名の小説が米国で出版されていて、そこから曲想を得ていること。その小説は、太平洋戦争への従軍を拒否した日系人の事を書いた筋書きで、著者もまた、同じような境遇を送った日系人であること(著者自身は従軍している)。そして、今では埋もれて、あまり読まれなくなってしまっているけれど、小説としてもすごくいいから、見つけたら、ぜひ読んでみてください、と。

それで、実際、自分がその小説をいつ探し出し、読んだのかというと、そのライブから5年以上経った今月2012年11月になってしまうのだが。。(Amazonで中古の邦訳本を買った。原オナはまだ健在だ。ブラボー!)読んだ感想は、本当に、いい本だった。自分は趣味で年間50冊くらい本を読むけど、小説で、目を開かせてくれるような思いをする本というのは、実際めったに出会えない。「ノー・ノー・ボーイ」は、そういう、稀な本だ。それで、この本を読んで、原オナは政治的なバンドでは決してない、というTAYROWの言葉も、分かった気がする。

no-no-boy主人公ヤマダ・イチローは従軍拒否した「No No Boy」だ。親が日本からの移民1世だが、アメリカで生まれ育った彼自身は日本にそれほどの思い入れはない。1世とは違い、日本に「帰る」なんて想像もできない。しかし、そういう彼が、従軍するかと問われた時、Noと言ってしまい、刑務所送りにされたのである。何故、そんな答えを出してしまったのかは彼自身にすら、分からない。彼は日本人にも、アメリカ人にもなりきれないのだ。一つ考えられる理由は、親・兄弟のいた国の人々に銃を向けたり、爆弾を落とせるか?ということだろう。しかし、大部分の2世は従軍を選ぶ。従軍拒否した人間は、アメリカでは軽蔑の対象だ。国民としては見てもらえない。そういう法があるわけではないが、「母国の従軍を拒否する」などという人間は、生涯まともな職にはつけない。こうした社会のどこが、「民主主義」なのだろうか?

そしてさらに言えば、従軍しても差別から逃れられるわけではない。従軍しなくても、従軍しても日本人はジャップであり、余計者の存在だ。ヤマダ・イチローの友人は従軍したが、片足を失って戦地から戻ってくる。予後が芳しくなく、手術の度に脚は短くなってしまう。ここから先は、もう、その本を読んでほしい。「政治」はいつでも見失っていいものではない。自分たちの存在を、根底から脅かすときがあるのだ。従軍するか、否かの答えはYesかNoだけで、中間が無い。そしてまた、正解の無いときがあるのだ。

 嘘っぱちの平和に 騙され 生き続け
 まやかしの自由に 踊らされ死んでゆく

 I don't wanna be a no no boy

イチローにとって救いとなるのは、余計者であることにより、逆に、彼だけに見えるものがあるということだ。それが後半にかけて、はっきりとは示されないが、うっすらと見えてくる。人と人との出会い、重なりあいがドラマチックであり、だからこれはプロパガンダ小説では無く、すべてを失いかけた男が、また何かをつかみかけるまでの、真摯な足掻きを描いた青春の小説だ。原爆オナニーズの曲もそうだ。政治を語るのは「政治的だ」と言われるような、特別なことじゃない。現在の自分たちが置かれている状況を、認識せよということだ。

余談だが、普段のTAYROWは会社の偉いさんということだ。もしかしたら、どこかの会社の社長なのかもしれない。社長が、こんなカッコいいバンドのヴォーカルだなんて、とてもいかしてる。こういう人がいるなら、偉くなるのも悪くないね!