ことばと音 Jロックの歌詞

peace人生の全体を喜劇と捉えるか、悲劇と捉えるか。結構、人によっては分かれるようだ。

徳川家康は「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し」と言ったそうだが、これは死に際だから言えるのであって、少年期にこれを聞いてもうんざりする話だろう。芥川龍之介などは「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである」、もうここまで来れば、後は死ぬしかない。少なくとも、明日も生きようといている我々が、そこまで思い詰める事はできないものだ。

どちらかと言えば虚無的な考えを持つ自分は、人生は不条理な喜劇だと思う。まず、現実は思想に裏付けられていない(おそらく科学的にも裏付けられていないだろう)。不条理とする所以である。喜劇としているのは、結局、生そのものが喜びを基調としているからであって、悲しみを志向し、悲しみに留まろうとする者が少ないからである。人間は、どんな悲しいことに遭遇しても、悲しみ続けることができない。どんな大切なものを無くしても、どんな愛する人との別れも乗り越えなければ、生き続けることができない。

今、劇作家として活躍しているケラリーノ・サンドロヴィッチが、「ケラ」として1980年代に率いていたバンド「有頂天」のメジャーデビュー・シングルが、今回紹介する「BYE-BYE」という曲だった。ちなみに、同日発売されたアルバム『ピース』の1曲めでもあり、華々しくあるべきメジャーデビューの最初に、別れの曲を持ってきたのは天の邪鬼なケラの面目躍如といったところだ。(もっとも、有頂天解散コンサートを収めたラストアルバム『FIN』最後の曲も「BYE-BYE」であるのだが。)『ピース』のコンセプトにしても「終末感」であり、後のケラ自身のコメントによれば「メジャー・デビューに際して、希望はあまり持てず、ネガティブにこもりがちだった」という背景が、かなり影響したのかもしれない。ただ、そうしたヘヴィさの上っ面を、妙に明るくポップな曲調で塗してしまうのは、もはや、ひねくれ者の枠で片付けられる領域では無いだろう。おそらくケラの正体は、全ての価値を疑おうとする、徹底した懐疑主義者なのである。

暴力的なハードコア・パンク全盛の時代に、「和む」という言葉から取った「ナゴムレコード」というレーベルを発足させたり(「筋肉少女帯」「人生(電気グルーヴの前身)」「たま」等、独特な個性を持ったバンドを輩出した。)、歌謡曲がダサいと言われだした頃に秋元康プロデュースの歌謡曲アルバム『原色』を発表したり、尾崎豊が「この支配からの卒業」などと歌っている時代に「学校へ行こう」と歌ってみせる人だ。さらに、彼の歌詞には「…ない」と否定する言葉が多い。カタカナの造語も多く、全体として意味不明な詞もまた多い。「僕らはみんな意味が無い」という曲さえあり、固定概念を壊そうとしばしば試みる。残酷なグリム童話や、「ずいずいずっころばし」みたいな童謡のように、現代の価値基準に捉われない子供の夢を、そのまま映したような詞世界と言える。

 寒くもないし 暗くもない ただの広場で
 おざなりの涙いらない こんなお別れ

  手も足も尻も
  毛も首も胸も
  バラバラ…

人との別れは、いつか必ずやって来る。それがどんなに好きな人であっても。明日か、50年先かは分からないが必ずやってくる。そして、生別死別など、いろんな形の別れがある。自然は別れのお膳立てなどしてくれないから、つらいはずの別れが、明るく、風も吹かない快晴の下だったりする。

 BYE-BYE ボクらの キミとボクとが
           出会った何か
 BYE-BYE ボクらの キミとボクとが
            作った何か
 BYE-BYE ボクらの キミとボクとが
            思った何か
 BYE-BYE ボクらの キミとボクとが
            行ったとこ

別れで失うのは、その人だけではない。その人との思い出も同時に失う。その人と関わったこと、話したこと、行った場所についても、もはや二人で語り合うことができない。そのうち、だんだん記憶が薄れ始める。

 フィナーレに こんなヘンな空気って かなりおしゃれ
 宙ぶらりんが妙にうれしい 晴れたおしまい

この、恋人との別れのシチュエーションが、ケラの実体験にあったものかは分からない。ただ1986年、飛ぶ鳥を落とす勢いだったように見えた有頂天のケラに、なぜ「別れ」や「終末」のようなヘヴィなイメージに彼が捉えられたのか。前述のメジャーデビューへの不安の他に、もう一つ大きなものとして考えられるのは、彼の父の発病である。ジャズマンだった父親への彼の敬愛の念は強く、それは彼の著書『私戯曲』の前書きでも触れられているので、少し紹介しておきたい。

shigikyoku「父、小林巽(たつみ)は昭和十二年二月十二日に生まれ、生涯の前三分の二をジャズマンとして、後三分の一をジャズをやったり父親をやったりして、昭和六十三年八月二十八日にその生涯の幕を閉じました。(中略)
 僕等は長い間父子二人だけの生活を続けていて、昭和六十年にはすでに『余命わずか』との言葉を担当医から聞かされていました。それ以来、父の生き様を自分のそれと無意識のうちに比較するようになり、その事が自分の行った様々な活動の起爆力となったような気がします。感謝の気持ちでいっぱいです。」

上記の、昭和六十年(1985年)の余命宣告は、ケラに相当のショックを与えたようで、翌1986年にソロで発表された曲「展開図」は、当時すでにただ一人の肉親だった父に捧げられたものだった。前述した通り、その気分はアルバム『ピース』にも色濃く反映される。冒頭の「BYE-BYE」の他、神経症そのものの歌詞「サングラスにプールを」、操ろうとする者や操られる自身を笑う「マリオネットタウンでそっくりショー」、アジアにおける日本のドン詰まり的終末を見越した「フューチュラ」…ちなみに、この曲は「はい、おしまいだよ。メリーさんを探してごらん。」というケラのぶっきらぼうな一言とともにブチッと末尾が切られてしまい、「感傷的な終わり」を徹底的に拒否した姿勢を貫徹させている。

この、ケラの科白「メリーさんを探してごらん。」の意味は、『ピース』のエンディング曲としてクレジットされていながら未収録の曲、「カラフルメリー」を指している。うろ覚えだが、当時、ケラはインタビューで、この曲のことを知りたかったら、ライブに足を運んで聴きに来てくれという意味のことを言っていたと思う。いわば、作品世界と現実を結ぶような存在なのだ。この「カラフルメリー」はケラが創造したキャラクターであり、その後、父の死にインスパイアされた戯曲「カラフルメリィでオハヨ」、有頂天のアルバム「カラフルメリィが降った街」で形を変えながら登場することになる。彼女のキャラクターは謎めいており、つかみづらいが、共通しているのは死や滅亡の日に現れる、堕天使であるということだろうか。

ohayoこの小文を書くために、今一度、戯曲「カラフルメリィでオハヨ」を見直してみた。現在、自分の手にあるのは前述の著書『私戯曲』に収録された初演時の戯曲と、DVD化された再々演版『カラフルメリィでオハヨ '97』である。自分は劇作家としてのケラリーノ・サンドロヴィッチにさほど詳しくないが、彼は主に不条理喜劇を得意にしており(少年時、既にチャップリンやマルクス兄弟のフィルムに親しみ、高校在学時も演劇部に所属していて元々の素地は十分にあった。)、本作はこれまで四演されている、彼の代表作と言えるものだろう。あらすじは、ボケてしまった主人公・みのすけ老人がその息子夫婦・孫娘と織りなす家庭劇と、みのすけ老人の幻覚内存在である、みのすけ少年の病院脱出劇が舞台で同時進行する。これもベースは喜劇である。そして重要なのは、この台本を執筆したのが、父の看病の最中であり、病室にて文字通り父に付き添って書くという特殊な状況下にあったという事実だ。その頃の父親の病状は相当悪化しており、薬の影響から意識が低下して、もはや会話することも難しくなっていたようだ。(この辺りの経緯は『私戯曲』に収められたケラの日記に詳しい。)

この戯曲は、再演の際、かなり書き直されており、そのため初演戯曲と'97年版とでは大分印象が異なる。一番大きな違いは「カラフルメリィ」が役として登場しなくなったことだろう。初演では、みのすけ老人の死ぬ間際にメリィが現れて、彼の死がいよいよであることをぶっきらぼうに告げる。その後、みのすけ老人は七色の光に包まれて天に召されて幕切れ。'97年版では、カラフルメリィはみのすけ老人の不確かな、白昼夢の記憶として存在を語られるだけで、みのすけ老人の死に際しても出てくることはない。みのすけ老人は死によって「ガーファンクル」に生まれ変わり、ミュージカル仕立てで「ぼくたちは百年後はもういない~いたとしてもかなりヤバい~いつか死ぬ、きっと死ぬ♪人間の死亡率100%~♪」とオールキャストが合唱するなか、楽しく幕切れとなる。こう書くとばかばかしいようだが、自分にとってはこちらの方が面白いと思った。

初演戯曲からここまで台本が書き替えられたのは、ケラ自身、「実は相当恥ずかしい芝居」という認識が大きく影響している。『私戯曲』の前書きの別の個所では「人は誰でも死ぬのであり、二十五歳にもなれば親の死を体験するのはさほど珍しい事ではありません。僕はたまたまこんなモノを書き、そして(そのナルシスティックな内容にも関わらず)発表する機会に恵まれただけです。」と述べられており、再演時に「私」を感じさせる個所が少なくなったのは、そうした意識の表れであろう。父を亡くした悲しみを十数年変わらず表現することは、決してリアルでないということだろうか。'97年版は、悲しみを乗り越えた彼の、苦しみの跡を実は示している。そういう意味では、彼の誠実さを感じさせる作品であり、そうであるからこそ、この戯曲は依然として「私戯曲」であると言えるのだ。

また、この戯曲から受け取られるメッセージは、人が生きる物語は決してひとつでないということ。いくつもの物語が、その人を接点としていながら、交錯もせず、ばらばらに存在することがあるということ。人生はたくさんの物語で構成されている。そういう意味では、別れも死も単なるリセットに過ぎないのだ。いくつもの喜劇や悲劇が入れ替わり、時に人は主役となり、ある時は脇役となり、意味もまたその劇の中でしか価値がない。痴呆となり、愛する息子の顔を判別できなくなった老人も、夢の中では全く別の新しい生を生きているということだ。悲劇の仏壇返し!自分はここに、本質的な喜劇の恐るべき強さ、一人の懐疑主義者の勝利を見る。

uchoten_ncP.S.
『ピース』未収録の「カラフルメリィ」だが、この曲は後年、有頂天の裏ベストというべき『ベジタブル』にライブバージョンが初収録され、さらにインディーズ時代の編集版『ナゴムコレクション』では初めて歌詞添えられた上で再録されている。こちらの歌詞もすごく良いので紹介しておこう。一見無意味な歌詞だが、カラフルメリィのキャラクターは、もしかしたら、彼の求める母性がそこに投影されているのかもしれない。

 ポピュラリティ 突拍子のために
 捨てられて 耳たぶがかゆい
 ポピュラリティ 突拍子のために
 捨てられた カラフルメリィ
 ポピュラリティ 突拍子のために
 捨てられて 耳たぶがかゆい
 ポピュラリティ 突拍子のために
 捨てられた カラフルメリィ

 絵空なぞりのカラフルメリィ
 絵空なぞりのカラフルメリィ

 ポピュラリティ 良妻賢母は
 捨てられて のど仏割れた
 ポピュラリティ 良妻賢母は
 捨てられた カラフルメリィ
 ポピュラリティ 良妻賢母は
 捨てられて のど仏割れた
 ポピュラリティ 良妻賢母は
 捨てられた カラフルメリィ

 絵空なぞりのカラフルメリィ
 絵空なぞりのカラフルメリィ

083382ce84ロックの歌詞は、何よりもまず歌われるべきものであって、通常の詩とは違い、活字だけで提供されることを主目的としていない。もちろん、集められた歌詞が書籍となって流通することはよくある事だが、本となってしまった歌詞の味気無さと言ったら、どうだろう。その味気無さが、あるいはロックの歌詞自体の過小評価に繋がっていると自分には思えるのだが、そもそも全て詩というものは神楽歌・催馬楽の昔から、肉声に乗ることによって完成されるものではなかったか。現代詩の曲芸は嫌いではないし、悪文の戦後思想も結構なことだ。ただ、近代から我が邦の詩人は久しく肉声を持たなかったように、自分には思える。

さて、友川カズキである。このブログの副題は「Jロックの歌詞」などとしているが、大して網羅的にするつもりはなく、単に同時代の日本の歌で、その時々、自分の頭にのぼった人を書いていこうと思っている。しかし、それだとしても友川カズキを「Jロック」などという、浮ついた言葉で括ってしまっていいのだろうか?そのスタイルから言えば、フォーク・シンガーと呼ぶ方がしっくり来るように思うが、人によっては「日本パンク・ロックの始祖」とする人もいて、それもあながち外れと言えないところが、彼の支持層の意外な広がりに繋がっていると思う。(余談だが、この2012年に友川は『ナインティナインのオールナイト・ニッポン』や『スマスマ』で取り上げられており、現在も新たな世代のファンを獲得しつつある。)

友川を知らない方のために、以下、略歴を記そう。1950年生まれの秋田県出身で、本名は及位典司(のぞきてんじ)と云う。この及位という姓を笑われるつらさから、勤め先の飯場で名乗ったのが「友川かずき」という芸名の発端であるという(2004年に、名前は現在のカタカナ表記になっている)。1970年、岡林信康の「チューリップのアップリケ」に触発され、ギターを弾き、歌うことを始める。1974年、東芝から「上京の状況」でデビュー。以後、1981年までに徳間からアルバム3枚、キングからアルバム4枚をリリースし、商業的に成功したとは言えないものの、熱心なリスナーの支持を受け続ける。この頃、ドラマ『3年B組金八先生』でゲスト出演し、名曲「トドを殺すな」を歌う映像が残されているが、津軽三味線のようにギターをかき鳴らし、絶叫するさまは、表現の古さ、新しさとかいう言葉を無意味にしてしまうほど、迫力に満ちたものだった。

そして、前作から5年の空白を挟んで、1986年にポリドールからアルバム『無残の美』をリリース。今のところ、これが友川最後のメジャー・レーベルからの作品となる。リリース間隔や、販売元の規模が作品の質と比例するわけは無いのだが、傍目には活動が沈滞しているように見えたかもしれない。しかし、友川はこの時、表現者として正に最盛期を迎えようとしていた。1曲目「彼が居た」は、昭和60年7月24日神奈川県真鶴海岸で溺死した元プロボクシングフライ級王者のコメディアン「たこ八郎」を歌った曲、清冽さが時に痛みを伴う「海みたいな空だ」、短歌絶叫コンサートで知られる歌人福島泰樹に捧げた曲「永遠」、中原中也の詩に曲をつけた「一つのメルヘン」「坊や」、そして、そうした佳曲たちの核として、今回紹介するタイトル曲「無残の美」がある。この曲の成立については、アルバムのライナーノーツに全て言い尽くされているため、便宜上、それを以下に引用させていただきたい。

「無残の美 友川は及位(のぞき)家の次男坊である。長兄一清と四男の友春は熊代に居住している。2歳年下の三男を覚(さとる)という。この曲は若くして逝った弟覚への追悼歌。覚は熊代農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出。流転が始まる。函館の牧場、千葉のマザー牧場、横須賀の海上自衛隊、生麦のストリップ小屋照明係、飯場から飯場、川崎の立ちん坊、函館ドックでのカンカン虫(船体清掃作業員)……。覚は、ちょうど兄友川がそうしたように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。坂口安吾と山頭火を愛し、その存在を兄に教えもした。一時郷里に帰ったが、(昭和)55年再上京して兄のアパートに同居。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人を。しかし半年後、いつもそうだったように突然の出奔。行方の知れないまま4年。(昭和)59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳。富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎の友川の部屋には20冊の大学ノートと数10枚のメモが残された。遺稿は『及位覚詩集』として、この夏(1986年)、矢立出版から刊行の予定。ちなみにジャケットのオブジェは『無残の美』とタイトルされ、友人の繪魯洲が制作したもの。」

友川の弟、及位覚は彼も詩を書いていたが、生前は無名の存在であった。彼が自ら命を絶った理由は分からないという。友川の「無残の美」は、以下の一節ではじまる。

 詩を書いた位では間に合わない
 淋しさが時として人間にはある
 そこを抜け出ようと思えば思う程
 より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ

 あらゆる色合いのものの哀れが
 夫々の運を持ちて立ち現れては
 命脈を焦がして尽きるものである時
 いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ

淋しさを紛らわすために多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。麻薬中毒の作家、W・バロウズは「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」と言ったが、彼の意図するところとはまるで違うかもしれないけれど、自分も、言葉は人間の心を蝕む病原体だと思うときがある。淋しさに形を与え、谺となって無制限に増殖してゆく。本当はきっと、彼は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 今もくれんの花が空に突き刺さり
 哀しい肉のように 咲いているど

 阪和線富木駅南一番踏切り
 枕木に血のりにそまった頭髪が揺れる
 迎えに来た者だけが壊れた生の前にうずくまる
 父、母、弟、兄であることなく

鉄道自殺した弟の身元確認の際、「見ない方がいいですよ」と言われたものの友川は、顔半分が飛んでしまった遺体と対面する。それは自分の親族だからというのでなく(だから「いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ」と歌っている)、一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。

 最後まで自分を手放さなかったものの
 孤独にわりびかれた肉体の表白よ
 水の生まれ出ずる青い山中で
 待つのみでいい
 どこへも行くな
 こちら側へももう来るな

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 そうか死を賭けてまでもやる人生だったのだ
 よくぞ走った
 走ったぞ
 無残の美

弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。「こちら側へももう来るな」、あえて解説など要らないと思うが、生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示したものだと思う。無残に破損された肉体と対面し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言ってあげられる、これが慈悲でなくて一体何だろう。人間のこころが授けられるもので、それ以上のものがあるのだろうか?

世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、言い換えれば懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。友川がリスペクトする、中原中也も、山頭火も、住宅顕信も、言葉を研ぎすませる手品みたいな事に取り付かれて、命を削った。一遍上人や、たこ八郎も、そういう意味では同じ群れの人たちだ。脆弱な肉体を持ちながら、それを忘れたかのように無茶をして、魂を純化する如く生き急いでしまう。

行き着くところ、残された作品だけでは全てを語れないのだ。立派に生き抜いたゲーテよりも、刹那的なボードレールやランボーが多くの人に、熱烈に愛される。実は誰もが、肉声を聞くことを求めている。自分たちの肉体がたかだか数十年のうちに老いて、消滅することを知っている。芸術はこの脆い肉体から、逃げられない。結局、友川カズキの東北訛りの、決して洗練とは縁遠いあの声に我々が脅かされるのは、そういうことでは無いのだろうか。

 「何が死だ!生でもないくせに!」(『彼が居た‐そうだ!たこ八郎がいた』)

最後に、この曲をまだ知らなくて、たまたま先にこのブログを目にしまったのなら、またいつか、この歌詞を耳で受け止めてみてほしい。この詞はきっと、そのまま黙読するだけでも良い詩だと思われるだろう。(この詩が原稿用紙に書かれた詩ではなく、ロックの歌詞だからという理由で、正当な評価を受けずに埋もれさせる理由がどこにあるのか。)しかし、これだけではまだ半身が欠けたままなのだ。自分はもう、この詩を読むたびに、友川のつんのめるような切ない声を探さずにはいられない。あっという間にかけぬける三分足らずの曲だが、啓示のように襲いかかる「ことばと音」をぜひ一度、体験して欲しい。

P.S.
これを書く時に、及位覚の事を調べていたら、ネットに詩が一編落ちていたので(詩集自体は、プレミアが付いてしまってもう自分の手には届かない)、それを紹介しておく。生を駆け抜けずには居られなかった、彼の思いが伝わる詩だ。

 愛しい時間 

 時の流れがすり抜けざまに微笑んだ
 残った大気の落とす悲哀は
 大地をゆるがすでもなく
 轟いては果て
 轟いては果てていた

 春とうたがうでもなく
 吝嗇(けち)な男は
 時に抱きつきはしても
 やがてひとつらなりの断片として
 追想の中におさまるであろう

 愛しい時間に抱きついている私を
 すり抜けてゆくものがありました
 加速された人生でした

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NuclearCowboythe原爆オナニーズ(theが付くのが正式名称だが、以下、原爆オナニーズまたは原オナ)は今年30周年を迎える、現役のパンクバンドである。そのアルバムはインディーズ・レーベルからのリリースが多いため、知る人ぞ知るという存在ではあるが、メジャーからベスト・アルバムや、過去作品が再発されるなど、リスナーの熱い支持を受け続けている。音は、ピストルズやラモーンズといったオリジナル・パンクを想起させる、パワフルかつ疾走感溢れたロック・サウンドだ。

しかし、業界内での評価が高いとは言え、意識的にパンク・ロックを聴いたりしない一般リスナーのうち、原爆オナニーズというバンドを知ってる人がどれだけいるんだろうか?いや、それは原オナに限らないことだろう、「ブルーハーツ」だって、「AKB」だって、興味が無い人に取っては草二本と同じだ。そういう閉じた市場が日本には幾つもあって、犇めいているくせにお互いには無関心だ。勿論それでいいのだけれど、原オナが好きで、やっぱり閉じた世界にだけあるのはもったいない気がするから、こんな文章を書いてしまう。いったい、「原爆オナニーズ」というバンド名を初めて聞く人は、どんな印象を彼らに持つんだろうか。「ああ、セックス・ピストルズのもじりなんだね」という一言だけで通り過ぎる人もいるだろうし、卑猥な言葉を喜ぶ粗雑な感性しか持たない、ならず者たちと見られるかもしれない。あるいは「原爆」という言葉に政治的な匂いを嗅ぎ取られ、胡散臭く思われることも、きっとあるだろう。

まず、バンド名のことを言えば、ボーカルのTAYLOWはベスト盤のライナーノーツに「このバンド名を名乗ることによって人々がこのバンド名に嫌悪感などの反応を持ち、核・反戦について問題意識を起こさせることができればよい」と記しているらしい。また、TAYLOWはレコード店フジヤマのHPにエッセイを連載しているが(2001年から2012年3月までで187回を数える)、そこではバンド名については日本という国の本質をついたもので、自分はこの名前に誇りを持っているとしていた。これは自分の解釈だが、日本人は過去の戦争については、加害意識は少なく、被害意識が強いといわれている(ただし、これももっと言えば、どこの国でも同じだろう)。その意識の象徴が広島・長崎に落とされた、2発の原爆なのだ。「オナニー」については言うまでもない。相手を楽しませることを知らない、コミュニケーション不全の日本人の、得意技だ。イギリスの「セックス・ピストルズ」の、掟破りの爽快感とはうらはらの、なんと自虐的で、諧謔に満ちたネーミングなのだろうか。(ちなみに、バンド名の付けたのはTAYLOWではなく、バンド結成時のオリジナル・メンバーによるもの。その時点でTAYLOWは参加していない。)

あと、政治的なバンド・イメージについて述べたい。原オナのデビュー作「JUST ANOTHER」のリリース日は4月29日「昭和天皇誕生日」。2作め「NOT ANOTHER」は12月8日「不戦の日(日米開戦)」。3作めで初のフル・アルバムとなる「NUCLEAR COWBOY」は8月6日「広島原爆投下の日」。収録曲のタイトルは「Go Go 枯れ葉作戦」「Another Country's(Dead Soldiers)」「Final Solution」。実は、先の連載エッセイの中で、TAYLOWは「政治的なバンドとは思われたくない」旨の発言をしている。しかし、現在の日本の音楽業界全体から見れば、今まで紹介してきたような要素だけでも十分、「政治的」なバンドと見做されてしまうのではないだろうか。80年代後半以降、ロックからは政治が切り離される傾向にあったように思う。反ユートピア、ポスト・モダンの思想が流行していたせいもあるし、イデオロギーで固められることで、硬直した発想しか生み出せなくなる事例に人々が気づいたせいもあるだろう。しかし、「政治」色に染まらないことが、「政治」を語らなくなることに繋がり、単に「政治」を見失っているだけだとしたら、どうなのだろうか。「政治」に無知であることが、どれだけ恐ろしい結果に繋がるのか、自分は毎日、新聞の一面で繰り広げられている「数合わせの乱痴気騒ぎ」に慄然としている。

「政治」という言葉を出さないとしても、国家の中にいる限り、「政治」に関わらなければいけない時がある。例えば、「右翼」「左翼」という思想的立場を表す言葉がある。そしてまた、政治の具体的な問題があり、例えば「反原発」でもいい、原発を支持すれば「右」で、反原発の立場なら「左」の考えだと言われたりしたら、ひどく乱暴かつ陳腐な括りだし、決めつけるなと思うだろう。なぜなら、右翼で反原発も居るだろうし、左翼で原発支持も居るだろうから。「反原発」の中だって、すぐ廃止するか、徐々に無くしていくかで大きな開きがある。さらに、どちらにもつかない日和見の立場、グレーなものも考え方として存在を認められなければならない。だが、そうした差異を一切無視して、「右」あるいは「左」どちらかの立場に強制的に立たせられてしまうのが、「政治」そのものなのだ。そして、それは戦争などの時間的な猶予のない事態ともなれば、一気に本性を現し、我々の喉元を攻めてくる。「君は兵隊として、戦争に行くのか、行かないのか?」

原オナの政治的な立場は「反戦・平和」ということになるだろうか。ただ、彼らは「反戦・平和」の成立することが、生やさしいものでないということを知っている。今回紹介する、初期の彼らの代表曲「No No Boy」(「JUST ANOTHER」と「NUCLEAR COWBOY」に収録されているが、自分は「NUCLEAR COWBOY」を推す。ジャケットと、このタイトなサウンドが好きなのだ。)に、その想いは十分込められている。ちなみに、彼らのアルバムには歌詞カードが付いていない。(ネットで拾った情報によれば、TAYROWは「付けたら負け」と言ってるらしい。)なので、以下は聴き取りになる。作詞もTAYROWだと思うが、違っていたとしても歌っている限り、彼の気持ちだとして問題ないだろう。

 嘘っぱちの平和に 騙され 生き続け
 まやかしの自由に 踊らされ死んでゆく

 何も無い平和に 隔離され 生き続け
 変わりゆく自由に 次々壊される[殺される?]

 I don't wanna be a no no boy

歌詞はこれだけだ。短く、技巧らしいものは何もない。言ってることも大体は、すぐに分かるだろう。かく云う自分も、初めて聴いた時はパッと通り過ぎて、しばらく顧みなかったのだが。でも、「No No Boy」が何なのか分からないと、これはピンと来ないかもしれない。「No No Boy」とは、太平洋戦争のさなか、アメリカの強制収容所の中で日系人に行われたふたつの質問「米国に忠誠を誓い、日本への忠誠を放棄するか」、「米軍に従軍する意思があるか」にそれぞれNO-NOと答えた人を指している。だから、この曲は平和呆けしてしまった日本人の向けられたものであり、日本人だからこそ歌える、借り物でない思想を持ったパンク・ロックなのだ。

CDで初めて聴いて、十数年以上経ったゼロ年代、彼らの本拠地の名古屋得三でライブを目にする機会があった。原オナのライブは、痛快に始まって、爽快な汗に溢れていた。でも「No No Boy」の曲前のMCで、TAYROWはさりげなくこんな事を言っていた。記憶が曖昧になってしまったので、細かいところは違うかもしれない。
「アメリカは自分たちが、民主主義を守る存在みたいなことを言ってるけれど、あの国はそんなこと実際考えていません。嘘っぱちの、正義の国です。」
確か小ブッシュ政権期で、アメリカがイラクに宣戦した後のことだったと思う。自分は虚を突かれたような気持ちになって、高ぶる演奏に入った彼らを見ていた。

その日の対バンの縁で、ライブの打ち上げに参加させてもらったのだが、その際にたまたま、TAYROWさんと隣になる機会があった。めったに無い機会なので、恥も忘れて、自分が初めて聴いた原オナの曲が「No No Boy」であること、今日、生で聴くことができて嬉しかったことを述べた。ライブと違って、眼鏡をかけたTAYROWさんは、打ち上げで紛れ込んだだけの男である自分に対しても、すごく紳士的に答えてくれた。(だから、ここでは「さん」付けで呼ばせていただく。)「No No Boy」は、同名の小説が米国で出版されていて、そこから曲想を得ていること。その小説は、太平洋戦争への従軍を拒否した日系人の事を書いた筋書きで、著者もまた、同じような境遇を送った日系人であること(著者自身は従軍している)。そして、今では埋もれて、あまり読まれなくなってしまっているけれど、小説としてもすごくいいから、見つけたら、ぜひ読んでみてください、と。

それで、実際、自分がその小説をいつ探し出し、読んだのかというと、そのライブから5年以上経った今月2012年11月になってしまうのだが。。(Amazonで中古の邦訳本を買った。原オナはまだ健在だ。ブラボー!)読んだ感想は、本当に、いい本だった。自分は趣味で年間50冊くらい本を読むけど、小説で、目を開かせてくれるような思いをする本というのは、実際めったに出会えない。「ノー・ノー・ボーイ」は、そういう、稀な本だ。それで、この本を読んで、原オナは政治的なバンドでは決してない、というTAYROWの言葉も、分かった気がする。

no-no-boy主人公ヤマダ・イチローは従軍拒否した「No No Boy」だ。親が日本からの移民1世だが、アメリカで生まれ育った彼自身は日本にそれほどの思い入れはない。1世とは違い、日本に「帰る」なんて想像もできない。しかし、そういう彼が、従軍するかと問われた時、Noと言ってしまい、刑務所送りにされたのである。何故、そんな答えを出してしまったのかは彼自身にすら、分からない。彼は日本人にも、アメリカ人にもなりきれないのだ。一つ考えられる理由は、親・兄弟のいた国の人々に銃を向けたり、爆弾を落とせるか?ということだろう。しかし、大部分の2世は従軍を選ぶ。従軍拒否した人間は、アメリカでは軽蔑の対象だ。国民としては見てもらえない。そういう法があるわけではないが、「母国の従軍を拒否する」などという人間は、生涯まともな職にはつけない。こうした社会のどこが、「民主主義」なのだろうか?

そしてさらに言えば、従軍しても差別から逃れられるわけではない。従軍しなくても、従軍しても日本人はジャップであり、余計者の存在だ。ヤマダ・イチローの友人は従軍したが、片足を失って戦地から戻ってくる。予後が芳しくなく、手術の度に脚は短くなってしまう。ここから先は、もう、その本を読んでほしい。「政治」はいつでも見失っていいものではない。自分たちの存在を、根底から脅かすときがあるのだ。従軍するか、否かの答えはYesかNoだけで、中間が無い。そしてまた、正解の無いときがあるのだ。

 嘘っぱちの平和に 騙され 生き続け
 まやかしの自由に 踊らされ死んでゆく

 I don't wanna be a no no boy

イチローにとって救いとなるのは、余計者であることにより、逆に、彼だけに見えるものがあるということだ。それが後半にかけて、はっきりとは示されないが、うっすらと見えてくる。人と人との出会い、重なりあいがドラマチックであり、だからこれはプロパガンダ小説では無く、すべてを失いかけた男が、また何かをつかみかけるまでの、真摯な足掻きを描いた青春の小説だ。原爆オナニーズの曲もそうだ。政治を語るのは「政治的だ」と言われるような、特別なことじゃない。現在の自分たちが置かれている状況を、認識せよということだ。

余談だが、普段のTAYROWは会社の偉いさんということだ。もしかしたら、どこかの会社の社長なのかもしれない。社長が、こんなカッコいいバンドのヴォーカルだなんて、とてもいかしてる。こういう人がいるなら、偉くなるのも悪くないね!

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